岐阜県の関ケ原を散策しました。
関ケ原は豊臣秀吉死後、西暦1600年徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が決戦した地です。
諸説ありますが、東西合わせて約20万の軍勢が集結し戦いました。
歴史、特に戦国時代に興味がある方は一度訪れてみることをおすすめします。
関ケ原合戦について簡単な説明
1582年、当時日本で最大の勢力となっていた織田信長が、家臣の明智光秀の襲撃にあい、その生涯をとじました。(本能寺の変)
明智光秀同様に織田信長の家臣であった豊臣秀吉(当時の名前は羽柴秀吉)は明智光秀を倒しました。(山崎の戦い)
豊臣秀吉は、その勢いのまま織田家の有力者や他の大名を倒し、1590年に天下統一を果たします。
その過程で、織田信長と同盟関係にあった徳川家康も豊臣秀吉に服従し、豊臣政権下で最大の大名となりました。また、石田三成は豊臣秀吉の家臣として、豊臣政権の行政を担当していました。
1598年、豊臣秀吉が病死しました。
1600年、豊臣秀吉が跡取りがまだ幼い(当時3歳)こともあり、不安定な豊臣家から天下を奪おうとした徳川家康は、豊臣政権下での有力大名である上杉家に謀反の疑いをかけ、豊臣家の大名を率いて山形県にいる上杉家を討伐に向かいます。
天下を奪おうとしている徳川家康を倒そうと考えた石田三成は、徳川家康が山形県に遠征に出たことを幸い、毛利家・宇喜多家などと共謀し、打倒徳川家康で挙兵しました。
大阪で挙兵し、岐阜県まで進出した石田三成と、山形県から反転して、同じく岐阜県まで進出した徳川家康が関ヶ原で戦ったのが関ヶ原の合戦です。
合戦そのものは6時間程度で徳川家康率いる東軍の勝利で幕を閉じます。
この戦いで勝利した徳川家康は、その後1603年に朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京)で幕府を開きました。
江戸幕府は1867年の大政奉還(朝廷に政権を返上)するまで264年間続きました。
合戦の規模も東西約20万人が戦ったとされ、且つ日本のその後の運命を決定づけた歴史上最も重要な合戦の一つがこの関ヶ原の合戦です。
散策開始
JR関ヶ原駅に到着後、「関ヶ原観光案内所」で電動自転車をレンタルしました。
もし、関ヶ原散策する際は、事前に電話で予約することをおすすめします。
その後、「岐阜関ヶ原古戦場記念館」に向かいますが、その道中に関ヶ原合戦に関する各時間帯での武将の陣についての説明がありました。合戦当日の動きがよくわかります。
「岐阜関ヶ原古戦場記念館」では、当日の合戦模様を約8分間の映像で見れたりします。(こちらも公式サイトから予約をおすすめします。予約していないと見れないこともあるそうです。)
また、当時の武器などを実際に触れたりするので、散策前にこちらに訪問したほうが、より楽しめると思います。
それでは散策スタートです。(散策コースは関ヶ原観光案内所などが作成したサイクリングコースをベースに、何点か訪問先を追加しました。)
桃配山
合戦当日、徳川家康が最初に布陣した場所です。
小高い丘の上にあります。関ヶ原全体を見渡せるというほどではありませんが、見晴らしの良い場所でした。
上記のようなパネルがあり、位置関係がイメージしやすくなっています。
合戦当時は建物などはなかったでしょうが、今でも高い建物はないので、徳川家康も同じような風景を見ながら合戦の指揮をしていたのだと思います。
本多忠勝陣
徳川家の最強の武将で、いくさに関して、家康が最も信頼していた本多忠勝の陣です。
史実かは解りませんが、司馬遼󠄁太郎の小説「関ヶ原」では、合戦が始まる前に徳川家康が10名程度を引き連れこの場所を訪れ、本多忠勝と話しています。
桃配山から自転車で数分の距離です。
場所は少し解りにくいです。上記の路地を入っていくと陣があります。
松平忠吉・井伊直政陣
松平忠吉は徳川家康の子供です。井伊直政は徳川家の最強武将の一人です。
松平忠吉はこのとき初陣でした。井伊直政は松平忠吉に手柄を立てさせようと、敵陣に近づき、宇喜多家に鉄砲を打ちかけました。
これをきっかけに合戦が始まります。
左奥に見える建物が「記念館」です。
東首塚
合戦後、徳川家康が竹中重門に命じて戦没者の供養のために作らせた首塚です。
松平忠吉・井伊直政陣と同じ場所にあります。
田中吉政陣
田中吉政は合戦後に石田三成を捕捉した武将です。
徳川家康最後陣
合戦が佳境に入ると徳川家康は陣を前に進めました。家康の前に陣取る武将たちは自然と的に向かって前進することになります。
ここが決着がついたときの徳川家康の陣の場所になり、その後、この場所で各武将からの戦勝の挨拶や論功行賞(戦果の報告)などを行いました。
細川忠興陣
細川家は前時代の支配者である足利幕府の幕臣である名家です。
織田信長勃興時から信長、秀吉に仕えました。
次の時代は徳川家と見込み、関ヶ原合戦では徳川家康に付きました。
奥の山頂に見えるのが、次に紹介する黒田家と竹中家の陣です。
写真では分かりづらいですが、その距離感が体験できます。
黒田長政・竹中重門陣
黒田家と竹中家はその父の代は二人共豊臣秀吉の軍師でした。
写真では見えにくいですが、右奥の山の上にある旗が石田三成の陣です。
石田三成陣には峰伝いで行くことができます。
(黒田長政は峰伝いに鉄砲隊を向かわせ、石田家最強武将の島左近を狙撃させ、重症を追わせています)
決戦地
合戦当日は当初石田三成率いる西軍が優位でしたが、西軍と思われていた小早川秀秋が西軍に攻撃をするなど、次第に徳川家康率いる東軍が優位となり、最終的に石田三成陣の目の前で決戦が行われました。
左はしの旗が島左近の陣で、その少し右上が石田三成陣です。
島左近陣
石田三成陣の目の前で獅子奮迅の働きをした島左近の陣です。
石田三成陣
西軍の実質の大将である石田三成の陣です。(名目上の大将は、合戦時は大阪城にいた毛利輝元)
この日は、石田三成陣で小早川秀秋本人が関ヶ原合戦について説明していました。
本格的な陣として展示されています。
このような柵で陣を守っていたようです。
関ヶ原全体が見渡せる位置に布陣したのがわかります。
決戦時は下の田んぼのあたりなどに敵兵が充満していたのでしょう。
島津義弘陣
島津義弘は関ヶ原合戦で不思議な動きをした大名です。
西軍に属しているものの、積極的に戦おうとしませんでした。
東軍諸将が攻撃を仕掛けてくれば反撃をしただけでなく、味方であるはずの西軍諸将が陣地前を通過するときも、鉄砲を打ちかけたりしました。
理由は諸説ありますが、島津義弘は日本最強の武将と言っても過言ではない人でしたが、従えている兵数が少なく、西軍で軽んじられたことに腹を立て、西軍東軍どちらにも属さない独立軍として関ヶ原合戦に参加したと言われています。
尚、合戦終了後、島津家は徳川家康の陣に突撃するように駆け出し、そのまま退却しました。
薩摩池
島津家が水の確保に使ったと言われる池です。
開戦地
前出の松平忠吉・井伊直政陣が宇喜多隊に鉄砲を打ちかけたり場所です。
これをきっかけに各隊が戦い始めます。
小西行長陣
西軍の有力大名の一人ですが、戦果が上がらす、自軍が崩れた際に逃亡しました。
熱心なキリシタンであり、自殺を禁ずるキリスト教の教えから、自害をしなかった小西行長は、戦後に東軍に自首し、京都で処刑されました。
宇喜多秀家陣
合戦当日に集まった西軍で最大規模の1万5000人の兵を従えていた宇喜多秀家陣です。
東軍の福島正則などが攻撃しますが、手も足も出ないような状態でした。
後に小早川秀秋が西軍に襲いかかったときに、ついに総崩れとなり敗走します。
戦後は最終的に徳川家に引き渡され、島流しとなりました。
合戦当時28歳だった宇喜多秀家は流された八丈島で84歳まで生きました。
本陣は写真のような場所ですが、その兵は一段下った平地に陣取っていたのだと思います。
大谷吉継の墓
大谷吉継は石田三成の盟友(親友)であり、豊臣秀吉に100万の軍の采配を振らせたいと言わしめた軍才の持ち主です。
関ヶ原では小早川秀秋の裏切りを予測して、秀秋が攻撃した際の備えをしておきました。
東軍諸将と戦っている時に小早川秀秋が裏切り、それらと戦いましたが多勢に無勢で壊滅しました。
大谷吉継陣
大谷吉継の墓のすぐ近くに陣地があります。
松尾山眺望地
松尾山とは小早川秀秋が陣取っていた場所です。
大谷吉継の陣にほど近い松尾山眺望地から、秀秋の動向を見ていたのでしょう。
写真ではわかりにくいですが、目の前の山が松尾山で頂上付近に小早川秀秋が陣取っていました。
小早川秀秋陣
小早川秀秋は豊臣秀吉の妻の血縁者で、当初、豊臣秀吉の後継者とされていましたが、豊臣秀吉に実子が生まれたため、中国地方の名家で毛利元就の子の小早川隆景のもとに養子に出され、そのまま小早川家を継ぎました。
西軍側の武将ですが、合戦途中に東軍に寝返り、東軍の勝利のきっかけになりました。
※松尾山頂上付近の小早川秀秋の陣に行くことができませんでした。
福島正則陣
福島正則は豊臣秀吉に取り立てられた武将ですが、石田三成との不和のため東軍として戦いました。
猛将としてしられており、東軍の先鋒を任されていました。
写真の松の木は、関ヶ原について描かれた関ヶ原合戦絵屏風にも描かれています。
藤堂高虎・極東高和陣
藤堂高虎は何度も主家を変え、どこでも活躍した武将です。(現代では転職を繰り返し、且つ転職のたびに収入が上がっていった有能な人です)
豊臣秀吉死後は徳川家康に接近し、関ヶ原合戦も東軍として戦いました。
烏頭坂(島津豊久碑)
前出の島津家が退却の際に、主将の島津義弘を生かすために、島津豊久がこの地にとどまり、東軍の追跡を遮りそのままこの地で討たれました。
なお、島津陣地などから随分離れた場所であり、合戦後にこの地まで走ってきたことだけでも、当時の足軽などの体力の凄さを感じます。
なお、島津義弘はこのまま本国の薩摩(鹿児島県)まで戻ることができました。島津家としては、主将を討たれなかったということで、その武勇を示すことができました。
関ケ原の合戦以外の名所
関ヶ原は1600年の関ヶ原合戦以外にも歴史的名所があります。
日本武尊(ヤマトタケル)の腰掛岩など
古事記で第12代景行天皇の第3皇子であり、英雄として語られるヤマトタケルが伊吹山の荒神退治を行う際に腰掛けたと言われる岩です。
また、少し離れたところにヤマトタケルが飲まれたという清水もありました。
名古屋陸軍兵器補給場
明治から昭和にかけてだと思いますが、兵器補給場もありました。案内に、当時アジア圏で最大の補給場だったそうです。
補給場の一部は立入禁止の札がなく、入ることができました。当たり前ですが暗くて少し怖く感じたのと、出入り口の高さが非常に低かったです。
不破の関所
壬申の乱の戦闘地
壬申の乱は、西暦650年頃に天智天皇(てんじてんのう)の皇太子と天智天皇の弟「大海人皇子」(おおあまのおうじ)による皇位継承を発端とした内乱です。勝利したのは、後に天武天皇(てんむてんのう)となる「大海人」。
こちらも日本の歴史を変える戦いです。
井上神社
壬申の乱関係の神社です。
終わりに
関ヶ原の合戦は日本で最も有名な合戦の一つです。また合戦の規模も歴史上最も大きいものになると思います。
小説などで関ヶ原の合戦が取り上げられることが多いですが、各武将の距離感などは、実際に散策してみないとわからないものです。
最終決戦地は石田三成・島左近の陣の目の前で行われていましたし、また、合戦が終わった後に、家康本陣に向かい「逃走」をした島津陣も決戦地のすぐ近くでした。
ぜひ一度訪れてみてください。
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