人類は今から約700万年前に生まれました。
そして約20万年前に現代人と同じホモ・サピエンスがアフリカで生まれたと考えられています。
ホモ・サピエンスは、やがて日本列島に住み着くようになりました。
そして紆余曲折を経て、現在の日本が存在します。
我々が住む日本がどのように作られてきたのか。これから複数の記事で、その歴史をまとめてみたいと思います。
今回は、主に縄文時代(1万3000年前にスタート)から初期のヤマト政権(約1500年前)までの歴史になります。
ざっくり縄文時代からヤマト政権まで
今から約1万3000年まえに地球が暖かくなりました。
狩猟とともに、ドングリなどを煮て食べたり、簡単な食料の栽培などを始めました。
日本では2500年前から、農耕技術が発達したくさんの食料を作れるようになったことから、養える人が増え、集団がだんだんと大きくなりました。
余剰食料(蓄え)も生まれましたが、そのため貧富の差が生まれ、争いが起こるようになりました。
農耕が始まってから約500年経った1世紀頃、日本は100以上のクニに分かれ争いが絶えませんでしたが、2世紀頃、一部地域では卑弥呼を中心とする連合国家が生まれました。
このころから西日本で古墳が生まれ、以降6世紀頃まで同型の古墳が関東や東北にも作られるようになります。
この古墳を作る政治勢力(連合)をヤマト政権といい、古墳の広がりから、ヤマト政権の勢力の拡大がわかります。
ヤマト政権は各地の豪族をその血縁関係単位でヤマト政権下に取り込んでいきました。
縄文時代の始まり
ホモ・サピエンスが生まれた20万年前は更新世といい、氷河時代とも呼ばれています。
この時期は寒冷と温暖を交互に繰り返していました。
寒冷期は海水面が下降し日本列島は大陸と陸続きになり、その時に大型動物などを追って日本列島に流れてきた人々が日本列島の最初の住民と考えられています。
ホモ・サピエンスは集団による狩りや火を使うこと・打製石器(石を打ち割って鋭くしたもの)の作成など進歩をしていきます。
この打製石器を使う時期を旧石器時代といいます。
当時は、打製石器を使った狩猟と植物性食料の採取を行っており、10人程度の集団を形成し、住まいも一か所に留まることはなく、テント式や洞窟などに住んでいました。
約1万3000年前に更新世が終わり、完新世という現代とほぼ同じ気象条件に変化しました。
この変化により、大型動物が絶滅し、植物も亜寒帯性から落葉広葉樹林や照葉樹林が広がりました。
これらの変化に対応するための生活様式の変化が縄文時代の始まりです。
1万3000年前に地球は暖かくなりました。
この環境変化への対応が縄文時代の始まりです。
縄文時代のくらし
1万3000年前から温暖な気温(完新世)になるとクリやドングリなどが増え、それらを煮て食べるための土器(縄文土器)が発明されました。
また、温暖化により大型動物が絶滅したため、中小型動物を狩猟するため、磨製石器(石を磨いて仕上げる石器)を用いた弓矢などが使われるようになりました。
この磨製石器を使う時期を新石器時代とよびます。
この磨製石器と縄文土器を使い始めた1万3000年前から、本格的な農耕が始まる2500年前ごろまでの、おおよそ1万年間を縄文時代といいます。
縄文時代はその初期は狩猟と採取が中心でしたが、後半になるとクリ林の管理・増殖、豆類などの栽培が行われていた痕跡もあります。
また一部では米・麦・アワ・ヒエなどの栽培も始まっていた可能性があります。
温暖化による海面の上昇などにより漁も盛んになり、釣り針・モリなど骨角器なども使われ、丸木舟なども各地で発見されています。
食料の獲得方法が多様化し、安定的に食料を入手できるようになったこともあり、人々は定住化していきました。
日当たりの良い、飲料水の確保をしやすい場所に竪穴住居をつくり、おおよそ20人〜30人程度の集団で暮らしていたようです。
縄文時代の風習として、抜歯(成人への通過儀礼)や土偶を使った呪術的風習が行われていたと考えられています。
縄文時代の世界の状況
日本で縄文時代と言われている1万3000年前から2500年前までの間に、世界の一部の地域では本格的な農耕が始まり、やがて国家が形成されます。
メソポタミアでは、約4000年前には強力な専制王朝ができており、ハンムラビ法典が発布されました。
また、ツタンカーメンがミイラとなったのも縄文時代です。
ギリシャにおいては、ボリス(都市国家)が発達し、民主制(民主主義)が生まれました。
中国では紀元前6500年〜5500年前(8500年前〜7500年前)に北の黄河や南の長江でアワやキビなどの農耕が始まりました。
そして、春秋・戦国時代(今から2800年〜2200年前)には農業生産も著しく発展し、この農耕技術・農耕文化が日本にも伝えられたと考えられています。
約2500年前に西日本で水稲農耕が始められた痕跡があり、これらをもって縄文時代から弥生時代(農耕中心の生活様式)に変わっていったと考えられています。
中国大陸から農耕技術を持った人々が訪れましたが、その後の弥生時代にも縄文時代の生活様式が残っています。
そのため、縄文時代の人々と農耕技術を持って訪れた人々は、程よく融合していったと考えられています。
弥生時代のくらしと発展(小国の分立)
中国から伝わった本格的な農耕を開始し、人々は従来の竪穴住居に住みつつ、集落には高床式倉庫のように余剰食料を保管するようになりました。
最初は石器による稲刈りなどを行っていましたが、次第に鉄器による農具も使われるようになりました。
集団は次第に大きくなり、弥生時代の後期には巨大な古墳が作られるようになりました。
古墳とは有力者のお墓です。
これは、集団の中に身分差が生まれ各地に強力な支配者が生まれてきたことを示しています。
当時、豊作を願った祈願などが行われていたと考えられており、古墳の中には銅剣などの祭器と思われるものも埋葬されています。
集団はますます大きくなり、堀や土塁などで集落をめぐらした環壕集落(直径500mほど)の出現や石器・金属類を使った武器をもつ集落が現れます。
これらは、蓄えた余剰食料などをめぐる争いが始まったことを示しています。
この集団はそれぞれクニを形成するようになりました。
1世紀頃に作られた中国の歴史書『漢書』地理志によると、日本では100以上のクニに分かれていること、中国に定期的に使者を送っていたことが記されています。
また、西暦57年に日本の奴国の王が中国の光武帝から印綬をうけたことが、『後漢書』東夷伝に記されており、光武帝から授かったものと考えられる金印が福岡市で発見されています。
農耕が始まると余剰食料が生まれ集団が大きくなります。
集団が大きくなると、身分差が生まれてきます。
世界各国で共通した流れです。
邪馬台国 卑弥呼について
西暦220年に中国大陸で後漢が滅び、魏・呉・蜀による三国時代がおとづれます。
西暦239年に、曹操(そうそう)が束ねる魏に邪馬台国の卑弥呼が使者を送ったことが『魏志』倭人伝に記されています。
日本では2世紀の終わり頃(西暦190年頃?)に大きな争乱がおこりました。
諸国は共同して邪馬台国の卑弥呼を女王として立てたところ、争乱がおさまり、30カ国ばかりの邪馬台国連合が生まれました。
卑弥呼は魏に使者をおくり、「親魏倭王」の称号と金印、その他多数の銅鏡などをおくられたとあります。
卑弥呼は巫女として、呪術的権威を背景にして、政治を行っていました。
この邪馬台国は、今でも近畿にあったか、九州にあったかの論争が続いています。
『魏志』倭人伝には、邪馬台国までの距離と方向が記されていますが、そのとおりに進むと、そこには海しかありません。距離か方向のいずれか間違えていた。もしくはいずれも間違えていることになります。
もし、邪馬台国が近畿にあったならば、後のヤマト政権につながると考えられます。
邪馬台国が九州にあったなら、近畿に別の政権があり、それがヤマト政権に繋がった。もしくは卑弥呼の死後、邪馬台国が近畿進出した可能性もあります。
邪馬台国も卑弥呼も魏志倭人伝に記載されている当て字です。
私(ブログ管理人)は卑弥呼→日巫子→太陽神→天照大神と考えるとロマンティックだと思えます。
いずれにしても研究が進むことを祈ります。
古墳時代からヤマト政権の形成
3世紀、西日本では前方後円墳が作られていました。
今の奈良県(大和)に規模の大きい古墳があり、この時期に大和地方を中心とする近畿中央部の勢力で政治連合が形成されていました。(これをヤマト政権といいます)
4世紀の中頃には東北地方中部にまで前方後円墳が作られるようになります。
これは、ヤマト政権の影響力が東北地方にも広がったことを示しています。
古墳で最大のものは大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)です。
5世紀から6世紀にかけて、ヤマト政権の勢力は九州中部から関東の地域豪族を支配していました。
当時の中国大陸にあった『宋』という国の『宋書』倭人伝には倭の5人の王(讃・珍・済・興・武)が次々と朝貢を行ったと記載があります。5人の王の内、「武」は雄略天皇であると考えられています。
この武王は軍事遠征を行い各地の豪族を統合していったとの記載があります。
ヤマト政権では氏姓制度と呼ばれる支配の仕組みがつくられ、各豪族は血縁や政治的関係をもとに氏と呼ばれる組織に編成され、氏単位でヤマト政権の職務を分担し、大王(天皇)は彼らに姓(カバネ)を与えました。
後に活躍する「蘇我氏」や「物部氏」などの「氏」は大王(天皇)から与えられます。
「氏」は後の苗字に変化しますが、「氏」を与える天皇には
「氏」(苗字)はありません。
世界(周辺地域)の動き
4世紀、中国では魏・呉・蜀の三国時代の後に普が国内統一を果たしますが、北方の諸民族の侵入を受けて南北に分裂しました。
結果、周辺地域への影響力が弱まり、中国北東部では「高句麗」が起こり朝鮮半島北部に領土を広げました。
朝鮮半島南部では、「百済」「新羅」「加耶」が起こります。
ヤマト政権は「加耶」と密接な関係にあり、高句麗が南下を始めると、百済・加耶と共に高句麗と戦いました。
まとめ
このあと、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子などが活躍することになりますが、今回まとめた時代は歴史的な資料が少なく中国に残る歴史書や朝鮮半島に残る石碑・古墳の発生場所や時期などから研究されています。
分からない反面、想像力を働かせるとおもしろい時代でもあると思います。
邪馬台国の場所・ヤマト政権の成り立ち・他の豪族の従え方など研究テーマは尽きないところです。
ヤマト政権や日本について「神話」という形でその成り立ちを記したものに「古事記」があります。
次回、この「古事記」から繋がる日本の成り立ちについてまとめてみたいと思います。
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